ベルリン危機、Checkpoint Charlieを挟んで手前の西側戦車と向こう側のソ連赤軍の戦車が1961年10月27日に緊張が高まり対峙した。
1961年10月17日、ソ連共産党第22回大会でフルシチョフ首相が年末までに東ドイツとの平和条約を結ぶとの主張を取り下げた。ウルブリヒト東ドイツ第一書記は事前に相談を受けなかったことからソ連の方針変換に不満であり、抗議の意思をこめて東ベルリンの境界線での入国審査の厳格化という実力行使に訴えた。
ケネディ大統領は西側諸国間でのベルリン問題の意見の相違の調整で苦しんでいた時期であり、一検問所でのトラブルを大きくする余裕はなかった。一方、フルシチョフは壁建設の時点でのケネディのシグナルから米国がこれ以上の行動に出ることは無いと確信しており、対峙の報告を聞いても「戦争なんて起こる訳はない」と考えていた。ケネディとフルシチョフは極秘で連絡をとり、一触即発の状態は20時間ほどで解消された。